MENU

STAFF INTERVIEW!

PROFILE

橋本 道春

代表取締役/ディレクター

どんな仕事してる?
経営全般を舵取りし、新しい企画や映像のコンセプトを考案
ひとこと
健康第一

INTERVIEWER

國本 琢也

究極にワクワクしたんです。これやりたい!!って

10周年おめでとうございます!まずは率直に、10年という節目に立った感想を教えてください。

これが難しくて、「あっという間なんだけど、すごく長い10年」っていう感想なんです。体感としては一瞬なんだけど、改めて振り返ると濃い思い出ばかりで、とても一言では表せない。そんな感情が湧いています。

おお〜。では、そんな10年をじっくり紐解いていきたいと思います。まず、ご出身は福島県ですよね?

そんなところからやるの!?(笑)福島で、いわきと郡山のちょうど真ん中の古殿町出身です。

庄内に移り住む前に、地元から出た経験はありますか?

20歳のころ、音楽やりたい!と思って上京しました。当時は「ASAYAN」*1人気で、無名の人が音楽で売れることを夢見て上京するパターンが多かったんです。

自分も一旗あげようと。東京での生活はどのような日々でしたか?

当時は練馬に住んでたんだけど、ひたすらバイトしてました。もちろん生活は楽ではなかったけど、一方でとりあえず暮らす分には全然なんとかなる実感があって。この「なんとかなるんだな」っていう実体験は後々重要な観点になりました。

なるほど。確かに世の中、だいたい大丈夫なことって多かったりしますよね。

そうそう!その一方で音楽の方はダメで。見切りは早い方なので、切り上げて地元に戻りました。トータルの上京生活は1年くらい。その頃から後の奥さんと付き合いだして、このまま結婚して地元で暮らすのかなあ、という日々でした。

でも、その日々に転機が訪れたと。

転機は結婚です!今の奥さんを逃したら一生結婚できないと思ってたんだけど、当時庄内と福島で遠距離恋愛していて、奥さんは仕事の都合で庄内を離れられない。それならと自分が引っ越して、結婚して遊佐で一緒に暮らすことにしたんです。

橋本さんがついに庄内に!最初は製造業の工場に勤務したんですよね。そこでまずは徹さん(オリーブスタッフ)と出会う。

そうです!自分が入社した翌々年くらいに、高校から新卒で入ってきたのが徹。徹は出会ってから今日まで普通に仲良いんだけど、当時から特別仲が良かったわけでもないんです。でも気づいたらずっと一緒にいるし、という不思議な仲ですね。

何かご縁があるんでしょうね。少しずつオリーブ創業に向けてお話をお聞きしたいのですが、そもそも映像に興味を持ったきっかけは?

最初は、奥さんの妹さんが友人の結婚式の余興で作った映像を見せてくれたのがきっかけです。今からもう20年くらい前の話なんですが、その当時個人で映像を作る、なんて誰もしていなかったような時期だから本当に衝撃的だったのを覚えてるんです。

2000年ごろでしょうか?まだYoutubeもない頃ですよね。IT革命なんて言われだした時期で

個人向けのPCで映像編集できるようになった、本当に最初の頃だと思う。個人でも映像が作れちゃうということに、究極にワクワクしたんですよ。これやりたい!!って。いまだにあの時の感情は忘れられないです。

オリーブの原点がそこに!そこから早速ご自分でも映像を作っていったんですか?

もう作りまくってた(笑)。それこそ結婚式の余興映像が多かったんですが、楽しくて仕方なくて仕事中もずっと映像の構成を考えてました(笑)。ちょうど20代前半で、結婚する友達が増えだしたのもいいタイミングでした。

地元の友達と

その頃は基本的に、映像に関わる作業は橋本さん1人で行っていたんですか?

企画・構成・撮影・編集まで全部やってました。むしろやりたかった。そのおかげで一つ一つの作業を覚えていくんです。この頃から「映画監督になりたい」という夢ができて。もっと映像に触れたくて映像会社への転職を考えたんですが、当時の庄内には映像会社の求人がない。それならということで、自分で映像会社を起業しました!(笑)

「これオリーブオイルじゃないじゃん!!」って(笑)。

ないものは自分で作ると!(笑)個人事業主から始められて。起業することに対して不安はなかったですか?

もちろん家庭もあるし先行きは不透明だったけど、もしこれがダメになっても別の仕事すればいいしなと。東京生活の経験で、どうとでも働けるしなんとかなった経験値があったは大きいです。何より後悔したくない気持ちも強かったし。映画監督の夢に向かうことでどんなことが起きるのか見てみたかったんです。

なるほど。まずはとにかくやってみる精神は今でもオリーブに根付いている考え方だと思います。

最初につけた屋号が「スタジオ3186(サンイチハチロク)」。自分の名前、「みちはる」の数字読みをつけました。ただこの名前だと、略して呼ぶ時に「スタジオさん」としか呼んでもらえなくて(笑)。

「3186」の方がアイデンティティなのに!(笑)でも「サンイチハチロク」って毎度言うのも大変なのは事実ですね。結果「スタジオさ〜ん!」と(笑)。

それですぐ屋号を変えました(笑)。その頃、奥さんが仲間内で開いていた食事会が「オリーブ会」っていう名前だったんです。食事にいったお店の卓上にオリーブオイルが置いてあって、これを名前にしようという感じで。それを聞いて、いいなと思って「スタジオオリーブ」に変えたんです。

軽やかですね (笑)。「オリーブ」と聞いた時に橋本さんの中で馴染むものがあったんでしょうか?

そうそう、なんかスッと入ってきた。ちなみに後々、奥さんが行ったお店の卓上にあったのはオリーブオイルじゃなくてバルサミコ酢だったと判明するんだけど(笑)。

まずは地大元が間違ってた(爆笑)!

食事会の写真を見せてもらって、「これオリーブオイルじゃないじゃん!!」って(笑)。

改めて考えると、会社の重要なきっかけに奥様が絡むことが多いんですね。庄内に来たのも結婚を機に、映像を始めたきっかけのも奥様の妹さん、そして社名にまで重要な関わり方をされていて。

確かに…。本当にそうですね!改めて考えないと分からなかった。

屋号改め「スタジオオリーブ」、その頃のお仕事事情はどうでしたか?

その頃、友達関係で結婚する人が4、5組いたんですよ。その人たちのプロフィール映像の仕事を受けた状態で会社を辞めまして。でもそれが終わったら、もう仕事ゼロ(笑)。しばらくはバイトしつつちょこちょこ入る仕事をこなす、という日々でした。

最初の仕事

まだまだ事業も回り出す前で。バイトはどんなお仕事をされてたんですか?

テレアポのバイトをして、経験もあったのでそこそこ上手くできたんですよ。社員に誘われたんですが、自分は映像の個人事業主をしているから無理だと言ったんです。それでもいいからと言われ、社員になりました。それがサンリキュールさんだったんです。

ここでサンリキュールさん!大事な出会いだったんですね (サンリキュール羽田社長のインタビュー参照)。

そしてその頃、工場の同僚だった春菜ちゃん(オリーブスタッフ)の旦那さんを介して拓也くん(スタッフ)、佐規子さん(取締役)夫婦と繋がって、結婚式の映像を作ったんです。

ここで拓也さんたちもご登場!

映像を作った後も、仕事がらみを含めて頻繁に連絡を取るようになって。仲良くなるまで時間はかからなかったですね。そしてその頃、にわかにオリーブが忙しくなってきたんですよ。広告を出したりしていたので、ポツポツお仕事が入ってきだして。

そうすると、いよいよ人手も欲しくなって来ると。

そうそう。そこで仲良くなっていた拓也くん達に相談したんです。一緒にやってくれない?って。そしたら「いいよいいよ!あ、部屋空いてるから使えばいいじゃん!」って言ってもらえて(笑)。

仕事仲間を探してたら、まさかのオフィスまで!(笑)そこのプロセスは本当に謎です(笑)。

この話は全員頭おかしい人の繋がりだからね!(笑)普通に考えたら絶対ない。ただ拓也くんも佐規子さんもウマがあったし、映像の経験とか関係なく、まずこの2人に声を掛けたかったんです。それは今でも間違ってなかったなと思いますし。

「あっという間だけど長い時間」

間違いございません!ここから余目時代が始まって。徹さんのオリーブ加入もこの頃ですよね?

そうです!拓也くんがスタッフをしていた龍神月山*2に手伝いでついて行ったら、観戦していた徹と再会して、徹も余目に来るようになって。「遊びにくればいいじゃん!」っていう拓也くんのノリ(笑)。

巻き込みますねえ。そして創業メンバーが揃ったと!仕事も広がりつつあった頃でしょうか?

それが、その頃のブライダル業界はあまり映像に力を入れてなくて。式場に営業に行っても、「映像屋さんね…何か?」みたいな感じの冷たい対応で。あれは辛かった…

そんな時代もあったんですね。

そんな中で、拓也くんの繋がりでグランドエル・サンに営業しに行けることになって。これはチャンス!と思って映像からウェルカムボードから全部持っていって必死でプレゼンして。担当してくださったのが川島さん(川島様インタビュー参照)で、結果的に契約を頂いて。当時唯一オリーブを認めてくれた取引先だったんです。今でも庄内のブライダル関係では、グランドエル・サンさんとしか契約しない、と決めているんです。

初期のオリーブを軌道に乗せてくれた存在なんですね。

一気に忙しくなりましたね。余目で仕事した期間って1年くらいなんだけど、もう四六時中いて、みんなと話して仕事して。生活=余目で仕事みたいな感じでとにかく濃い時間だったんです。だから最初に言った「あっという間だけど長い時間」っていうのはまさにそこで、何年も余目で仕事してたな〜と思ったら、あれ1年しか経ってないの?という感覚。

創業期という意味でも思い出深い時間だったんですね。そしてオフィスも余目から酒田市の新橋へと。

酒田に引っ越すタイミングで、個人事業主からいよいよ株式会社化しました。法人化にあたって物件を探していて、サンリキュールの羽田社長(羽田様インタビュー参照)に相談したんです。そしたら「オフィスの一部屋空いてるから使いなよ!」と言っていただいて(笑)。

毎度いいタイミングで部屋が空いてますね!(笑)

ほんとにそうだよね!(笑)そこから3年くらい東町でしたね。そこももっと長くいたような気がするんだけど。当時Webに挑戦しようと思って、結婚式の席次表を売るサイトを立ち上げたんですよ。それが大失敗で…全く売れなかったです。

あら…そんなことが。

それからウェディング映像中心に軌道修正して、そこでで初めてテレビCMを作ったり、企業のPR映像の仕事も始まったりして。充実した東町時代でしたね。

だからこそプロの仕事はなくならない、と思っています。

そして現在の新橋にお引っ越しを。オフィスも広くなりましたね!

広くなりました!ここ引っ越す1週間前にふみくん(スタッフ:伊藤寛文)も入社して佐規子さんも正式に入社して、すごくフレッシュな気持ちでしたね。その頃にもう1度Webをやろうということで、ハニカミ*3を立ち上げたんです。カジュアルに映像を使ってくれるといいなという気持ちで。辰徳さん(佐藤辰徳様インタビュー参照)もHP制作で手伝ってくれて。そしたらこれが…売れちゃって。

おお!ハニカミは今でも大事な事業ですもんね。立ち上げ当初から好評だったんですか?

もう、HPを作っている最中に注文がきて(笑)。まだ文章の入力が完了してない段階だったけど、サンプル映像を見て買っていただいて。しっかりしたクオリティでちゃんとやれば売れるんだな、と思いました。

価格帯と手軽さで、ちょうどいいところの新たな需要を作ったところもありますよね。

そうかも。それで言えば、ハニカミはLINEで打ち合わせや写真素材の入稿ができるんだけど、当時はどこもやってなかった。本当に1軒もやってなくて。その手軽さが受けたところはあるかもしれないですね。

このあたりが、現状のオリーブ業務の大枠ができてきた頃でしょうか?

そうですね。ハニカミや占いの森*4をはじめとしたEC事業、企業PRやウェディングなど映像を受け持つ制作部、あと各種写真撮影と。人手も必要になってきて、タイミングよく春菜ちゃんが仕事を辞めた時期だったので今だ!と思ってオファーかけたり。

オフィスも広くなって人手も増えて。順調に伸びてますね!

タイミングも重要だったし、運がいいと言ってしまうと簡単なんですが。運を引き寄せるくらいに真面目に頑張ってきたという自負もあります。適当に見えるところもあるかもしれないですけど(笑)。

映像について伺いたいのですが、誰でも映像を作れる現代で、映像の「プロ」か「プロじゃないか」の違いはどこにあると思いますか?何をもって「プロ」とするか。

物語を作れるかどうか、だと思います。オリーブでは映像でものを伝えるとき、その中に必ずストーリーを組み込んでいるんです。全然小さなことでよくて、例えば自転車に乗ってる人の映像があったら、次のカットは自転車を降りてお花を見てる映像を入れる、とかでいいんです。そうすると、見た人はそのカットの間を違和感なく想像できますよね。その想像に解釈の幅はあっても全然いいんだけど、意味のある映像の繋がりが大事で。

なるほど!何も考えずに映像を羅列するのではなくて、意図を考えながら演出を入れたり見せる順序を決めたり。

そんな感じ!どれだけ映像が身近になってもプロの目線は明確にあって、だからこそプロの仕事はなくならない、と思っています。

なるほど。この映像への意識づけは、何かきっかけがあって身についた視点なんですか?

いえ、これはもう映像を作り始めた当初から思っていたことで。結局ストーリー作りが楽しいから映像作りをしているんだなと思います。工場勤務の時、機械の操作とか仕事ぶりでこの人には敵わないと思う人がいっぱいいて。徹もその中の1人でしたけど。そこまで熱意かけられないとか、なんかスタートからこの人の方が上手だとか。

ありますね!結局好きでやってる人には勝てないなとか。

勝てない!だけど映像に関しては、逆に始めた頃から自分これ出来るな!と思ってるんです。ずっと好きだし、向いてるなと。だからこそ負ける気はしない!(笑)

橋本さんは社長でありつつ、第一線のプレーヤーですよね。4年前には念願の映画監督作品も上映されて。

「作りたての家族」*4ですね。感慨深かったし、自分の中では本当に大きな経験でした。(映画「作りたての家族」についてのページもぜひご覧下さい!)


映画については、次回作を期待してもいいんでしょうか?

もちろん、映画は作り続けようと思ってます!ずっと映画が目標だし、ある意味それが目的で仕事をがんばっているところが社内のモチベーションでもあったりするんです。でも映画はお金がかかるので(笑)、会社も頑張りつつ、何年かに1回の派手なお祭りみたいな感覚で、メンバーのみんなと作っていきたいと思ってます。

「じわっとだけど、うまくやってるよ」

そのメンバーもみなさん個性的な方ばかりですよね。

そうだね!のんちゃん(スタッフ:小野望)は現スタッフで唯一、求人募集で来てくれて。凄い仕事が出来るからどんどん出来ることを自分で増やしていってくれたり。あと性格も意外とファンキーだし。

菅原さんと常田さんは、拓也さんが巻き込んだというか(笑)、きっかけで入社して。

そうだね(笑)。でもとっち(菅原)はオリーブになかったバックグラウンドから新しい視点を持ち込んでくるし、常田くんはカタカタッとした硬めの技術者かと思いきや、アイデアマンなところもある。来年の年賀状は常田くんのアイデアが元になってます(笑)。

そんな個性的なメンバーとの仕事をやっていく上で、職場の雰囲気や方向づけにおいて意識していることはありますか?

あります。会社の社訓、っていうほどでもないんですが、これは守りなさいと決めていることが3つあって、「絶対に人の悪口を言わない」「人を敬う」「お洒落をする」、これだけ。会社も結局人付き合いだから、陰で悪口言われる職場なんて嫌だし、年齢関係なく人を敬えない人とは仕事したくないし。

その考えが職場の雰囲気の土台になってるんですね。外から見ていても、仲良くて風通しのいい組織だなと感じます。

今回の10周年企画にしても、業務に関係なく遊んでくれるマインドをみんなと共有できているのも嬉しいし、人に恵まれているなと思ってます。

今の会社のなかで、最近力を入れている部門はありますか?

最近だと、映像配信に早めに手をつけていて良かったなと思っています。今配信がすごく伸びていて。FRIDAYZ*5のライブ配信を行ったのをきっかけに、体制を整えていきました。分からないなりにみんなで勉強しながら。

新しいことに挑戦する姿勢は、創業期から変わらないところですよね。ここまでお話を聞いて、改めて今の橋本さんにとってオリーブとはなんだと思いますか?オリーブの10年とはどんなものだったでしょうか。

そうですね…居場所を作ってきた10年だったかな。だからオリーブは「居場所」。

居場所ですか。

映画監督の夢を叶えるのが目標だったけど、今はそれだけじゃなくて会社自体が好きだし、スタッフみんなと会社に居ることが楽しい。何か新しいことをする時でも帰る場所があることは凄く重要だし、メンバーも自分を受け入れてくれるし。スタッフと一緒に、そんな居場所を作っていった10年なんだと思います。

得難いものを手に入れたわけですね。それでは最後に、10年前の自分に何か伝えられることがあれば、どんなメッセージを送りますか?

お〜、なるほど!(笑)。う〜ん…。「じわっとだけど、うまくやってるよ」って言ってあげたいかな(笑)。

(笑)!いいですね!

10年前のオリーブ法人化の時って、本当に、本当にこの先どうなるか分からなくて。当時の自分にそんな言葉をかけられたら、「大丈夫なのか!」って思えるかな、って(笑)。

「じわっと」の部分がまた含蓄ありますね。

ちょっと匂わせるというか(笑)。「大変なこともあるっぽいな…」とかね。

(笑)。でもトータルで楽しそう、が伝わりますね。ではこれから次は11周年!これからも楽しいオリーブで居続けてください。10周年おめでとうございます!

ありがとうございます〜!

*1 ASAYAN…テレビ東京制作のオーディションバラエティ番組。モーニング娘。やCHEMISTRYなど、国民的アーティストを多数輩出。

*2 龍神月山…庄内町で開催されるオフロードバイクイベント。川の上を走る全国的にも珍しいコースで人気を博す。現在はコロナ禍の影響で昨年から開催休止中。

INTERVIEWER

國本 琢也
1986年生まれ、神奈川県出身のMC、ラジオパーソナリティー。
早稲田大学法学部中退後、山形県に移住し米農家となる。

2014年、ヒルクライムバイクのイベント「Hill Climb TOHOKU」を皮切りに農業と並行してMC活動を開始。以降、バイクイベントだけでなく地域イベントでもMCを務める他、結婚式司会等も経験。コロナ禍においてオンラインイベントのMCでも好評を博す。
現在、酒田FMハーバーラジオにて自身初となる冠ラジオ番組「シャドウ國本のだいたい大丈夫」に出演中。FM山形の特番出演など露出を増やし、国内でも稀に見る「農家MC」として着々と活動のエリアを広げている。